自国民5000万人を殺害した冷酷な独裁者スターリンとは何者か?
スターリンといえば、ソ連の指導者として第二次世界大戦で、ヒトラー率いるナチスドイツに勝利して、戦後ソ連をアメリカと並ぶ大国に押し上げたことで知られています。
また、ソ連人を5000万人殺害したといわれていて、冷酷な独裁者として知られています。
自国民を大量に殺害したことから、あのヒトラーよりも恐ろしい独裁者と言われることもあります。
スターリンはなぜ恐ろしい独裁者となり、5000万人もの自分の国の人々を殺戮したのでしょうか。
今回はそんなスターリンの生涯について解説していきます。
幼少期
スターリンは1878年に、ロシア帝国のグルジア、現在のジョージアで生まれました。
スターリンという名前は鋼鉄の人という意味が込められたペンネームで、
本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリです。
スターリンはロシア人ではなく、少数民族であるグルジア人でした。
当時のロシア帝国は多民族国家でいろんな民族が暮らしていました。
父親は靴職人で母親は専業主婦でした。
父親は職人としての腕はよかったみたいですが、酒を飲むと妻や息子のスターリンにたびたび暴力をふるう駄目おやじでした。
生活はとても貧しく、母親はこの生活から抜け出すには息子のスターリンにしっかりと勉強をさせ立派な職につけさせることだと考え、家政婦の仕事をしてスターリンの学費を工面して、とある教会の付属学校にスターリンを通わせました。
スターリンの学業成績は優秀で、卒業後は奨学金を得て首都にある神学校に進学しました。
神学校とは、キリスト教の教えを勉強して聖職者を目指していくところでした。
ですがスターリンは入学後に、カールマルクス著作の資本論を読んで社会主義という思想に影響を受けて、神学に対する興味をなくし成績はどんどんひどくなっていきました。
社会主義とは、個人が財産権を持たず、国家が全国民の財産を一括で管理して、平等に富を分配していく考えのことです。
当時のロシア帝国は資本主義で、資本家と呼ばれる金持ちと労働者である貧乏人との経済格差があまりにも激しかったので、社会主義は当時の労働者階級で広く支持されていました。
青年期
スターリンは神学校を中退して、気象台で気象局員として働きながら社会主義革命を目指す活動をするようになり、同じく社会主義革命を目指していたレーニン率いるポリシェビキの党員に加わります。
スターリンは、銀行強盗など違法な手段で大金を獲得しては、レーニンに社会主義革命のための資金援助をしていました。
このような働きぶりがレーニンに認められて、スターリンは党の幹部の書記長に出世します。
ロシア革命
1917年に、第一次世界大戦の影響で国民の生活が苦しくなり、当時のロシア皇帝に対する不満が爆発した民衆によって王政が打倒されてロシア革命が起きました。
のちに臨時政府とレーニン率いるポリシェビキが権力をめぐって争い、結果臨時政府は倒されレーニンがロシアの権力のトップにたちました。
レーニンは、ソビエト社会主義共和国連邦通称ソ連の建国を宣言します。
ですがソ連建国から間もなく、レーニンは脳卒中で亡くなりました。
権力への道のり
当初有力な後継者は、スターリンではなく世界社会主義革命論を唱えるトロツキーだと思われていましたが、スターリンは政敵であるトロツキーをソ連から追放。トロツキーはメキシコへ亡命しましが、のちにスターリンが送り込んだ刺客によって暗殺されました。
大粛清
スターリンは権力を握ると、自分に逆らおうとするものを次から次へと処刑していきました。スターリン大粛清とのちに呼ばれることになります。
このような恐怖政治を行った背景には、自分以外誰も信じることができなくなり、疑心暗鬼に陥ったスターリンの異常な精神状態があったからだといわれています。
5か年計画
スターリンは恐怖政治で自分の権力を揺るがないものにすると、ソ連を発展させるべく五か年計画を行いました。
5か年計画とは、5年の間に決められた量の農作物の収穫を目指していくことです。
それまでの農業国だったソ連から工業国を目指し、農業の集団化を進めました。
自分の土地で農業をしていた農民たちを、政府が用意した大規模な農場に一か所に集団で住まわせ、農業に従事させることで効率よく大量の農作物の収穫が見込まれました。
ですが農民たちはいくら一生懸命働いても、自分達が食べるのに必要な量以外はすべて政府に没収されてしまうので、やるきをなくしていき、自分たちが食べるのに必要な量以外は作らなくなっていきました。
結局農業の集団化によって、ソ連の農作物の収穫高は大きく低下し、深刻な食糧不足に陥り餓死する国民が相次ぎました。
独ソ戦
Paul Siebert - 投稿者自身による著作物, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9692112による
1939年にヒトラー率いるナチスドイツがポーランドへ侵攻。第二次世界大戦がはじまりました。
当初ソ連はドイツと独ソ不可侵条約を結んでいて、スターリンとヒトラーはお互いに戦争はしないと約束していましたが、1941年にヒトラーは約束を破ってソ連に侵攻。
およそ2000万人が命を落としたといわれている独ソ戦がはじまりました。
当初はドイツの快進撃が続きましたが、冬将軍の到来によりドイツ軍の戦車が次々と凍ってしまい、戦況は逆転。
この戦争中では、最前線にいたソ連軍兵士は、ドイツ軍兵士との交戦中に命の危険を感じて許可なく持ち場から退却しようとすると、自分の背後にいる味方のはずの同じソ連軍兵士によって銃殺されたり、ドイツ軍に捕虜になった兵士の家族は全員強制収容所に送られるなどしました。
これらの残忍で冷酷なスターリンのやり方による徹底抗戦も功を奏して、ソ連はドイツに勝利しました。
このことで国内外からスターリンの指導者としての評価は高まりました。
戦後ソ連は資本主義国であるアメリカと対立していくことになり、東西冷戦と呼ばれる時代に突入していきます。
孤独な最期
74歳の時にスターリンは脳卒中で亡くなっているのを、自分の寝室で発見されました。スターリンの部屋の前にいた警備担当者は、時間になってもスターリンが部屋から出てこないことに不審に思っていましたが、勝手に中に入ってスターリンに激怒されることを恐れてなかなか部屋に入ることができず、発見がだいぶ遅れたのです。
冷酷な独裁者の最後は、孤独で惨めなものでした。
スターリン死去後、新たなソ連のトップに就任したフルシチョフによって、スターリン批判が行われて、国内外にスターリンが行ってきた恐ろしい大粛清が知られることになり、スターリンは恐ろしい独裁者として現在でも語りつがれることになったのです。
実の息子を見捨てた
スターリンは、自国の兵士や国民だけでなく、自分の家族にも冷酷でした。
独ソ戦でスターリンの息子が捕虜としてドイツ軍に捕まり、ドイツ軍からソ連軍に捕らえられていた元帥との捕虜交換を持ち掛けられたが、スターリンは応じず実の息子を見捨てました。
のちにスターリンの息子はドイツの強制収容所で命を落としました。
まとめ
スターリンは神学校在学中に、社会主義の考え方に影響を受けて革命家として活動し、銀行強盗などの違法な手段で大金を稼いでは、自分が所属していたポリシェビキという社会主義革命の運動を行っていた組織に資金を援助しました。
ポリシェビキのトップであったレーニンから働きぶりを認められて党の幹部である書記長に出世します。
ロシア革命が起き、ポリシェビキが臨時政府を倒してレーニンがソ連の建国を宣言するもまもなく脳卒中でレーニンは死去しました。
レーニンの跡を継いだスターリンは、自分に逆らうものを次から次へと処刑し、五か年計画で農業国だったソ連を工業国にすることを目指し、大規模で効率的な農作物の収穫を目指し、農業の集団化を進めました。
第二次世界大戦では、独ソ戦で苦戦しながらもドイツに勝利し、戦後ソ連をアメリカと並ぶ大国に成長させました。
74歳の時に、スターリンは自分の寝室で誰からも看取られず脳卒中で、孤独な最期を迎えました。
スターリン死去後、フルシチョフによるスターリン批判で恐ろしい独裁者だったことが、国内外で知られることになりました。
近年のロシアでは、スターリンに対する再評価が高まっているといわれています。現在のロシアのトップであるプーチン大統領によって、スターリンは第二次世界大戦でナチスドイツに勝った英雄と神格化されているからだそうです。
どう考えても英雄ではなく、恐ろしい悪魔だと思いますが。
参考元