20世紀最悪の独裁者アドルフヒトラーの生涯について分かりやすく解説。

出典       アドルフ・ヒトラー - Wikipedia

Sashi Suseshi - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=134977735による

アドルフヒトラーは、恐ろしい独裁者として今なお語り継がれています。

1939年にドイツの領土拡大のためにポーランドへ侵攻。第二次世界大戦を引き起こし、戦時中に多数のユダヤ人を迫害したことから、20世紀最悪の悪魔と評されています。

第二次世界大戦で犠牲になった人数は5000万人から8000万人ともいわれ、当時の世界人口の約2パーセントの人々が尊い命を落としました。

ユダヤ人に関しては約600万人がヒトラー率いるナチスによって、強制収容所に送られるなどして殺害されました。

1940年にフランスのパリが陥落して、ナチスドイツはヨーロッパの大半を占領するなど一時期は優勢だったこともありましたが、イギリスやソ連の徹底抗戦やアメリカの参戦により、徐々にドイツは劣勢になっていき、1945年4月30日、ヒトラーは愛人だったエブァブラウンとともに自殺。

ソ連軍によるベルリン陥落の二日前のことでした。

今回はそんなヒトラーの生涯について解説していきたいと思います。

 

幼少期

ヒトラーは1889年に、オーストリアのブラウナウというところで生まれました。

ブラウナウはドイツとオーストリアの国境にある町で知られています。

父親は税関職員で母親は専業主婦と、中流家庭で育ちました。

父親は小学校卒業と無学歴ながらも、働きながら勉強をして、当時のエリート職であった税関職員になるという大出世を果たした人物です。

そんな父親は息子のヒトラーにも自分と同じ税関職員になってほしいと、小学生だったヒトラーに鞭をふるって無理やり勉強させようとしました。

ヒトラーは自分に厳しく接する父親を嫌っていました。

その反面、母親はヒトラーのことを溺愛していて、仲は良好でした。

父親に散々勉強しろと言われたヒトラーですが、勉強をせず試験の出来は悪く学校の教師に口答えする問題児でした。

ヒトラーは在籍していた実技学校という、現在の職業訓練校を成績不良で中退。結局学歴は父親と同じ小学校卒業に終わりました。

ヒトラーが14歳の時に、父親が脳卒中で亡くなりました。息子のヒトラーには父親の残した遺産や政府から孤児年金が支給され、学校を中退後は働かず自由奔放な生活を送りました。

青年期

18歳の時に、ヒトラーは芸術の都といわれたウィーンへ移住します。芸術家を志し美術学校を2度受験しますが、不合格となります。

受験人数は113名で合格者数は28名と、合格倍率は4倍でめちゃくちゃ難関だったというわけではありませんでした。

不合格になったヒトラーは直談判した試験官から、画家はあきらめて建築家になってみてはどうかねと、言われたというエピソードがあります。

20歳になると、ヒトラーは身分を隠して各地のホームレス宿泊所を転々とします。

理由は徴兵逃れのためです。

当時のオーストリア男子は20歳になると、徴兵検査を受ける義務があったのです。

24歳の時に、徴兵忌避罪を逃れるために、ヒトラーは出生地のオーストリアからドイツのミュンヘンへ移住。しかし現地の警察によって逮捕されてしまいます。

ですが体格検査で不合格になったので兵役を免除され、徴兵忌避罪に問われることはありませんでした。

1914年に第一次世界大戦がはじまると、ヒトラーはドイツ陸軍に入隊。

上官から受けた命令を戦地にいる仲間に伝える、危険な任務の伝令兵として活躍し、政府から鉄十字勲章など6回表彰を受けました。

ですが右目を負傷して入院。

1918年11月に、ドイツの敗戦を知るとヒトラーは大きなショックを受けました。

独裁者への道のり

出典 Adolf Hitler - Wikipedia

By Bundesarchiv, Bild 183-H1216-0500-002 / CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5780403

第一次世界大戦終結後、敗戦国ドイツは、ベルサイユ条約戦勝国であるイギリスやフランスから多額の賠償金を課せられ、ドイツ経済は大混乱となります。

当時のドイツ政府が、賠償金返済に充てるために紙幣を刷りすぎたために、ハイパーインフレが起きて、ドイツ紙幣が紙くず同然となりました。

そんなときに、ヒトラーは所属していた軍部から、政府批判を繰り返していた当時弱小政党であったナチ党にスパイとして入党しました。

そこでドイツが第一次世界大戦で負けたのは、ドイツ軍の作戦ミスではなく、ユダヤ人の陰謀だとして、ドイツ人以外の民族をドイツから追放すべきだとする反ユダヤ主義の演説をして、ヒトラーは観客から絶大な人気を獲得、多数の資産家がパトロンにつくようになり、ヒトラーはナチ党のトップにまでのぼりつめました。

1923年に、ヒトラーは武力で当時のドイツ政府転覆を狙おうと、多数のナチ党員とともに、ミュンヘン一揆を起こしますが失敗し、国家反逆罪で首謀者のヒトラーは逮捕され裁判にかけられます。

ヒトラーに下された判決は禁固5年と、国家反逆罪の割には非常に軽いものでした。

この理由には、一切の弁解をせずすべての責任は私にあると一貫して主張したヒトラーの真摯な態度に裁判長が同情したからだと、いわれています。

ヒトラーは獄中で我が闘争を執筆しました。内容はヒトラーの自伝書みたいのもので、のちにナチズムの聖典といわれるようになります。

わずか2年で釈放されたのちに、ヒトラーはナチ党としての活動を再開していきます。

1929年に、アメリカのウォール街の株価暴落により、世界恐慌が起きるとアメリカの経済的な支援で回復をみせていたドイツの経済は再び悪化し、当時のドイツ政府の支持率は大きく低迷し、政府批判を行っていたナチ党は公共事業を通して貧困層への生活支援を行うなどして、ドイツ国民からの人気を獲得していき、1932年の国会議員選挙では、ナチ党は230議席を獲得して、与党第一党にまでなりました。

翌年の1933年に、当時のヒンデンブルク大統領によってヒトラーは、ドイツ国首相に任命されます。

当初は野党との連立政権でヒトラーの首相としての権限は大きなものではありませんでしたが、同年にドイツの国会議事堂が何者かに放火されるという事件が起きました。

ヒトラーは、この事件は共産主義者が犯人だとして次々と共産党員を逮捕しました。

当時共産党もナチ党とともに大きく議席を伸ばしていて、今後ナチスの脅威になると考えたヒトラーはこの事件を利用して共産党を潰そうと考えたのです。

国会議事堂を放火したのは、実はヒトラーの命令を受けたナチ党員だったのではないかと言われています。

共産党がいなくなったことで、国会の議席の約3分の2がナチ党のものにまりました。

ヒトラーは国会で全権委任法を可決させて、ヒトラー内閣で定めた法律はたとえ憲法違反でも正しいということになりました。

つまりヒトラーが決めたことは、なんでも正しい、すぐに実行されるようになったということです。

ヒトラーはナチ党以外の政党を強制的に解散させ、ナチスによる一党独裁軍事体制を樹立し、アウトバーン政策で、ドイツの各地に高速道路をたくさん建設してその作業に大量の失業者を従事させるなどしてどん底だったドイツ経済を回復させました。

1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると、首相や大統領の職を兼任し、総統と呼ばれるようになりました。

独裁者としてヒトラーが掲げた目標

出典 Adolf Hitler - Wikipedia

By Bundesarchiv, Bild 146-1990-048-29A / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8251049

 

ドイツの独裁者に君臨するようになったヒトラーは、ベルサイユ体制の打破をめざし、再軍備を宣言し、東方生存権の拡大を目指しました。

ベルサイユ体制とは、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツに対する、戦勝国であるイギリスやフランスの報復政策のことで、ドイツは大幅に軍備を制限され、多額の賠償金を課せられました。

ヒトラーはイギリスやフランスに無断で再軍備を行い、賠償金の返済も踏み倒しました。

東方生存権の拡大とは、オーストリアチェコスロバキアポーランドなどドイツ以外で暮らしていたドイツ人たちとともに、すべてのドイツ人が一緒に同じ国に住めるように、東方へ勢力を拡大していこうという考え方です。

ヒトラーの一連の征服活動

1936年にヒトラー率いるナチスは、フランスと領有権を争っていたラインラントへ進駐しました。

ラインラントは当時非武装地帯と言われていて、勝手に自国の軍隊を派遣することは国際法で禁止されていました。

再軍備したばかりのドイツ軍では、フランス軍が攻めてくると勝ち目はありませんでしたが、フランスは軍隊を送ることはなく抗議の声明のみでした。

イギリスやフランスをはじめとする、当時のヨーロッパの国々は第一次世界大戦の戦禍で疲弊していて、軍隊を送る余裕はなく、ヒトラーはそのことを計算に入れていたのです。

同年、ヒトラーは東方生存権の拡大を果たすべく、ドイツの隣国であるオーストリアを併合し、チェコスロバキアを占領下にしました。

これらのヒトラーの征服政策にイギリスフランスは、武力で制裁を課すことはせず、ドイツとの戦争を避ける融和政策と称して、ヒトラーの一連の侵略行為を認めました。

第二次世界大戦

ですが1939年にドイツがポーランドへ侵攻すると、イギリスやフランスはもういい加減にしろと激怒し、ドイツに宣戦布告。

第二次世界大戦がはじまりました。

1940年にドイツは短期間のうちに、ポーランドやオランダ、ベルギーを占領し、ついにはフランスのパリまで陥落させ、フランスが降伏し、ヨーロッパの大半がナチスによって占領されました。

イギリスは首相チャーチルの指導のもとでヨーロッパで唯一、ドイツ軍と徹底抗戦を続けます。

なかなかイギリスに勝利できないヒトラーは、しびれを切らして1941年にドイツはソ連に侵攻。独ソ戦がはじまりました。

ソ連とは1939年に独ソ不可侵条約が結ばれていて、ドイツとソ連はお互いに侵攻しないと約束していましたが、この約束をヒトラーは破ってソ連に侵攻したのです。

ヒトラーポーランド侵攻後に、独ソ不可侵条約を結んだ背景には、ドイツがイギリスやソ連の挟み撃ちになるのを恐れたからだといわれています。

ではなぜヒトラーは、その2年後にソ連に侵攻したのでしょうか。

その理由はソ連がドイツの石油の主な供給地であった、ルーマニアの油田を狙っているとの情報がヒトラーのもとに入ったからとか、ヒトラーソ連軍を甘く見ていたからだと言われています。

独ソ戦は、最初はドイツが快進撃を続け、ソ連の首都であるスターリングラード陥落まで目前でしたが、冬将軍の到来により、ドイツ軍の戦車は次々と凍ってしまい、ソ連との戦争は長引きました。

イギリスやソ連の徹底抗戦に続いて、同年にアメリカがドイツに宣戦布告をしました。

アメリカは当初、ヨーロッパの戦争に中立の立場を取っていましたが、1941年12月8日に、ドイツと同盟関係にあった日本が真珠湾攻撃を行いアメリカに宣戦布告をしたことで、アメリカが本格的にヨーロッパの戦争に介入することになったのです。

強大な軍事力を持ったアメリカや態勢を立て直したソ連に、ドイツは東西挟まれる形となってしまい、戦況は徐々に劣勢に追い詰められていきます。

ヒトラーの自殺

出典 アドルフ・ヒトラー - Wikipedia

Bundesarchiv, B 145 Bild-F051673-0059 / CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5457502による

 

1945年4月30日、敗戦を覚悟したヒトラーは、ソ連軍によるベルリン陥落の2日前に愛人だったエブァブラウンとともに、拳銃自殺をしました。

ヒトラーの遺体は生前のヒトラーの命令で部下によって焼却されました。

戦後ベルリンに突入したソ連軍によってヒトラーの頭蓋骨が発見され、回収されたといわれています。

ヒトラー生存説は本当か?

当時はヒトラー生存説が噂されることは多く、ベルリン陥落前にドイツの潜水艦に乗って南米に逃亡して余生を送っていたという、根も葉もない作り話がでることもありましたが、2018年にAFPが、大学教授の研究者らがロシアで保管されている歯を調査してヒトラーの物に間違いはなく、1945年にヒトラーが死亡したことは間違いないという研究論文を発表したと報じました。

www.afpbb.com

ヒトラー率いるナチスユダヤ人迫害

ヒトラー率いるナチスは、政権獲得した1933年からドイツ敗戦の1945年までに、多数のユダヤ人を強制収容所に送り、収容所内で過酷な労働に従事させたり、ガス室で処刑したり、人体実験に利用するなどして600万人ものユダヤ人が犠牲になったと言われています。

第二次世界大戦終結後に、生存していた当時の収容所の所長をはじめ多くのナチ党員がユダヤ人殺害に関わったとしてアメリカなどの連合国軍により裁判にかけられ、戦争犯罪で死刑となりました。

まとめ

今回はヒトラーの生涯について解説しました。

ヒトラーが台頭した30年代のドイツは、ワイマール憲法という今の日本国憲法とよく似ている現代的な憲法があり、民主国家として知られていました。

そんなドイツになぜヒトラーは恐ろしい独裁者として君臨してしまったのかは、いまだに議論がされています。

ただ確実に言えるのは、今後もヒトラーのような恐るべき独裁者がいつ誕生してもおかしくはないということです。

2016年に米国の大統領に就任したドナルドトランプ氏がよい例といえるでしょう。

移民であるメキシコ人を口汚くののしる、トランプ氏の演説手法はヘイトスピーチといわれていて、ヒトラーのやり方とよく似ていると指摘されてきました。

2024年3月8日現在、そのトランプ氏は2期目の再選を目指して共和党の大統領候補になっています。『もしトラ』という言葉が使われ始めていて、『確トラ』になったとも言われています。

ヒトラーのような独裁者は決して過去の産物なんかではなく、現代にも蘇る危険性があるのです。

 

参考元

youtu.be

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アドルフ・ヒトラー - Wikipedia